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2009年 03月 09日
ラグーザ・玉を、調べて行くうちに彼女が、生きた
時代と近代化を進める明治期の洋画家たちの草創期の 情熱が浮かび上がってきた。前回、私は、 20歳年上の日本政府に招聘されていたイタリア人彫刻家ビンチェツォ ラグーザと19歳、もしくは28歳で結婚。21歳の時にイタリア・パレルモに 渡ると記されているモノがあったので、おそらく19歳で結婚したのだろう。 と書いてしまったが、幼少期から町絵師 小林永洲に師事、数多い弟子の中で 師匠の一文字をとって永寿の画号を受けている本名 清原玉は、彫刻家ラグーザが 東京の古物商で蒐集した膨大な古器物を写生図(記録用)として残し、そして 「大抵の人間だったら、私の様に意固地になって先方の言う事を聞かないと、怒り出すか しょげてやめるかしそうなものですが、そこはラグーザはゆったしたもので、相変わらず 変わった花を持ってきてくれました(中略)その頃、永洲先生がお亡くなりなすったので 私はお師匠さんを別に探す事はやめてラグーザに就いて勉強する事にきめました。」 (木村毅編 「ラグーザお玉自叙伝」より) と西洋画転向への理由として述べている。その後、ラグーザ教授の工部美術学校は 廃止。パレルモに美術工芸学校を設立する計画を持っていたラグーザは、 玉に水彩画の教師としてパレルモに赴く様に清原家に懇願、姉婿栄之助が漆芸 姉千代が日本刺繍の教師となる条件でイタリアへ渡り、日本人初の女性洋画家誕生に つながる事となる。その後イタリア語と西洋画の指導を受け、28歳でラグーザと結婚。 エレオノーラ・ラグーザとなる。なので、先に記した私の推測は、誤りであったのです。 イタリア統一、間もないパレルモにて、19世紀の沈滞したイタリア美術の時期に ありながら当時パリを中心に巻き起こっていた反アカデミズムの動きに属する訳でもなく 後期印象派の影響も全く受けていないのは、パレルモと言う辺境の地に、不時着した玉の 数奇な運命を感じさせてくれる。まさに、歴史的に点の様な画家である。 お玉さんは、愛と旺盛な創作意欲のみに生きた純粋で希有な大和撫子であったのです。 ラグーザが、他界した後、パレルモを訪れた木村毅氏の昭和6年、大阪毎日新聞 東京日日新聞夕刊に連載した「ラグーザお玉」と題する連載小説がきっかけとなり 51年ぶりに彼女は、日本の土を再び踏む事となる。 その後も薔薇やミカン、松茸などを描き続け、そして、第2次世界大戦直前の 昭和14年4月、77歳10ヶ月の幸せで数奇な生涯を終える事となる。 私は、このラグーザ玉を調べる事に対して、何か特別な意味を持っていなかった。 しかし不思議な事に、知れば知る程、幸せで暖かい気持ちになっていくのである。 それは、きっとこの希有な画家の人生が、波乱に満ちながらも純粋で幸福で あったからに違いないと、ぼんやり、うすら寒いアトリエで考えている。 「あ〜暖かいパレルモに行きたい」と脳天気に思えるのも、ラグーザ玉の絵画の おかげかもしれない。
by kentarobaba68
| 2009-03-09 16:22
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